核兵器全廃の取り組み

−われわれの向かうべき先とは--

注 :以下の講演は、2002年5月4日にワシントン市で開催されたIPPNW/PSR第15回世界会議「The Summit for Survival(生存のためのサミット)」における、ロートブラット教授による基調講演の翻訳(野崎由紀氏による)である。

 現状はまことにきびしいと言わねばなるまい。核兵器全廃の運動は、はかばかしい進歩を見せていない。否、その危急存亡へと向かいつつある。International Physicians for Prevention of Nuclear War(核戦争防止国際医師会議=IPPNW)は過去21年間、Physicians for Social Responsibility(IPPNWアメリカ支部=PSR)は41年間、そしてパグウォッシュ会議は45年間にわたり、全世界から核兵器を廃絶するべく活動してきた。しかし、最近になって公表されたNuclear Posture Review(米国の核態勢見直し=NPR)によれば、われわれの取り組みは行き詰まりを迎えているのみならず、核兵器の使用が軍事戦略に常に組み込まれる可能性すら立ち現れている。

 さらに憂慮すべきは、われわれが一般社会の支持を得ていないことである。この事実は、たとえば英国で過去20年間にわたって毎月、系統的に実施されてきた世論調査の結果を見れば明白である。このグラフは、(1)英国が現在直面している最重要課題とは何か、および(2)英国が現在直面している他の重要課題とは何か、という2つの質問に対する回答を併せて示している。ある時期、4割を超える回答者が、核軍縮および核兵器問題が最重要課題であると答えていたのだが、このような回答の占める割合は急速に減少し、冷戦が終焉してからというもの、1パーセント前後で低迷してきた。英国以外の諸外国については、相当する統計を持ち合わせていないが、各種の指標からすれば、米国世論の傾向はこれに類似していると思われる。ソビエト連邦が崩壊した後、大多数の人々は、核の脅威は過ぎ去った、あるいは既存の核戦力の抑止効果が核の脅威を眠らせてくれるだろう、と考えるようになった。これらの見解を裏付ける根拠は存しないが、一般社会に対するわれわれの働きかけが成功していないことは明らかである。

 PSRあるいはIPPNWの、そして(もちろん)パグウォッシュ会議のこれまでの成果を軽んじるつもりは毛頭ない。具体的な証拠は提示できないが、核戦争が現在までのところ回避されてきたという事実に、これらの組織が一定の貢献を果たしてきたと私は確信している。このことは、ミハイル・ゴルバチョフも直に認めてくれた。時として相互に称賛しあうことが望ましい場合もあるだろうが、われわれとしては過去の成功に甘んじるわけにはいかない。われわれは使命を遂げておらず、見込みの薄い先行きに直面してなお、結束して核兵器全廃に向けた運動を再開しなければならない。本稿において私は、マス・キャンペーンの一新を強く主張し、それを主として法的および道義的な原則論に立脚させるべきことを提案する。

 NPRが明らかにした事実は、われわれにとって衝撃的であった。というのは、核兵器を最終手段と考える従来の核ドクトリンを破棄し、核戦力を通常の戦争計画に組み込む戦略を打ち出しているからである。これは、核兵器を正当化する政策全体における、大幅かつ危険な方針転換である。

 実際のところ、NPRの内容は、別段の驚きをもって迎えるべきものではなかった。9月11日に起きた一連の出来事に大きく影響されたのは明らかとはいえ、この新たな戦略とは、広島および長崎に原子爆弾が投下された時から、あるいはそれ以前から、公的には核軍縮を推進しながら、それに背反して米国政府が熱心に追求してきた核兵器政策をあからさまに表現したものなのである。

 この欺瞞と偽善とに満ちた政策の核心を成すのは、核抑止論である。それは皮肉なことに、原子爆弾計画を牽引した科学者たちによって生み出されたものである。

 私自身を含め、この研究に参加した英国の科学者たちは、人道的な科学者ばかりであった。われわれは純粋に科学的研究に従事したのだが、心の底では、その成果を人類の利益のために活用できるかもしれないという期待を抱いていた。大量破壊兵器の開発に携わるという考えは、通常の状況であれば忌避すべきものであったろう。しかし、状況はそうではなかった。戦争、それも民主主義と、かつてなく悪を極めた全体主義との戦争が差し迫っていた。われわれが怖れたのは、原子爆弾が開発され、ドイツがその製造に成功し、核の力をもってヒトラーが戦争に勝利し、邪悪なナチ政権が世界を征服してしまうことであった。われわれは当時、西側同盟国が彼の野望を阻止するためには、自らも原子爆弾を保有し、報復攻撃の恐怖で対抗するよりほかないと考えた。私が核抑止という考えをまとめたのは、第二次世界大戦が勃発するより前の、1939年の夏のことであった。

 この核抑止という考えが謬見にすぎないことを私自身が認識するには、しばらくの時を必要とした。われわれの目的は原子爆弾が誰の手によっても使用されないようにすることであり、核兵器による報復が抑止力として機能することを期待したのである。この考えは、理性的な指導者にとっては効果を発揮するかもしれなかったが、ヒトラーは正常な判断の持ち主ではなかった。証明はできないが、もし彼が原子爆弾を手にしていたとするなら、ベルリンにあった隠れ家から発した最後の命令は、自国に対する凄惨な復讐を覚悟した上での、ロンドンへの原爆投下であったに違いない。「神々の黄昏」なる彼の哲学精神に照らせば、これは妥当な仮説である。

 しかし結局、これは仮説で終わることになった。ヒトラーは、原子爆弾が米国で製造されるより前に、通常兵器によって敗北したからである。しかし、核抑止論がその誕生と同時に用いられ、かつ現在に至るまで一貫して用いられてきたこともまた、紛れもない事実である。たとえば核によらない攻撃に対してさえ核による報復の脅威を与える、核抑止論の変種のごとき「拡大抑止」は、私の考えによれば、核兵器全廃の取り組みにおける最大の障害である。

 世界初の原子爆弾の実験準備が整った1945年7月までに、原子爆弾開発計画を推進した多くの科学者は、それを一般市民に対して使用することに対し、道義的な立場から強く反対の意を表した。彼らは米国大統領ならびに米国政府への陳情のさい、この道義上の反対論を提出した。

 結局、陳情は拒絶された。当時の政治家や軍の上層部には、原子爆弾に関する彼らなりの見解があり、良心のとがめの入る余地はほとんどなかった。戦争を終結させたいという願いが重要な要素であったことは疑うべくもないが、これに増して重要だったのは、おそらく、世界、とりわけソビエト連邦に対して、アメリカ合衆国が新たに手にした軍事力を知らしめることであった。そして、原子爆弾の圧倒的な威力を最も効果的に見せつけるには、実際に使用することが必要だったのである。

 米国がソビエト連邦を最大の敵とみなしていたことは、第二次世界大戦が終結してまもなく明らかになったが、私自身はそれ以前に、マンハッタン計画全体を指揮したレズリー・グローブス将軍の口から直接聞かされて知ることになった。ロス・アラモスで関係者が集まって開かれた会食に私も出席したのだが、その席上で彼は、「もちろん諸君も承知しているだろうが、この計画の主たる目的はソ連を威圧することだ」と述べたのである。この発言が1944年3月になされたことには、重大な意味があった。というのも、当時のソビエト連邦はわれわれと同盟関係にあり、共同してヒトラーに立ち向かっていた。そして、毎日何千人ものロシア人が戦死し、ドイツ軍をスターリングラードで食い止め、連合国軍がフランスに上陸するための時間を稼いでいたのである。

 広島および長崎に原子爆弾が投下されてから2ヶ月後の1945年10月のこと、グローブス将軍は、冷徹な言い方で、米国の核兵器政策に関する見解の大要を述べた。

 「米国がほんとうに理想主義的ではなく現実主義的な国家ならば(どうやら前者のようだが)、われわれが同盟関係を固く結んでいない国々、ならびに全幅の信頼を寄せていない国々に対し、原子爆弾の製造もしくは保有を許すことはないはずである。仮にそうした国のいずれかが原子爆弾を手にしようとするなら、その国が米国に対する脅威として台頭する前に、われわれは原子爆弾を製造する彼らの能力を破壊するであろう。」

 この時から57年を経た現在、この現実主義がNPRに明示されたのである。

 グローブス将軍が嘆いてみせた「理想主義的」感情は、原子爆弾による広島と長崎の壊滅に対する世界的な反発であり、米国民の大多数が共有した強烈な反感であった。核兵器は、その誕生当初から嫌悪の対象であったし、道義的立場から、ほぼ全世界が、核兵器のいなかる使用も容認しない態度を表明した。私は、現在でもこれに変わりはないと確信している。この感情は、国連総会の最初の決議によって示された。国連憲章が採択されたのは、広島に原爆が投下されるよりも2ヶ月前の1945年6月であったため、同憲章には核兵器時代について触れる条項が含まれていない。しかし、1946年に国際連合第1回総会が開催された時、全会一致で採択された最初の決議とは、下記のような使命を与えられた原子力委員会の設置であった。

 「…委員会は、最大の迅速さをもって当該問題のあらゆる側面を調査し、かつ…具体的な提案を行い…諸国家の軍備から核兵器を廃絶し、大量破壊兵器として使用可能な他のあらゆる主要な兵器を廃棄することを目的とする。」

 米国政府は、この目的に公然と反対することはできなかったが、あらゆる手段を講じて妨害を試みた。原子爆弾が広島に投下されるとすぐに、米国では核兵器廃絶運動が始まり、マンハッタン計画に関わった科学者たちが先鋒となって活動した。彼らは、原子力管理をあらゆる側面から研究して具体的な提案を行う、特別調査委員会を設置した。その成果がいわゆる「アチソン・リリエンソール報告」であり、その中で原子力に関するすべての活動を管理、査察、許可する権限を有する国際原子力開発機構の設立を勧告した。さらに同報告は、以下のような具体的な提案を行っている。

 「原子爆弾の製造は中止すべきである。既存の原子爆弾については、これを条約の定めに従って廃絶すべきである。」

 「アチソン・リリエンソール報告」を修正し、米国政府の公式な立場を述べた「バルーク案」が、1946年6月、国連原子力委員会へ提出された。

 その書き出しは、黙示録さながらであった。

 「われわれは、生者か死者かの二者択一を迫られている。これはわれわれの選択である。新たな原子力時代は破滅の前触れを告げているが、その背後には希望がある。もしこれを信念によって掴み取るなら、生きながらえることができよう。だがもし掴み損ねるなら、全人類を恐怖の隷属下に置くことになろう。自らを欺いてはなるまい。世界の平和か世界の滅亡か。これはわれわれの下すべき選択である。」

 「バルーク案」の表現は適切であり、力強い気運を巻き起こすものだった。しかし、行動を伴うことはついになかった。

 「バルーク案」は条約に対する一定の条件を示したが、それは、国連常任理事国の拒否権を認めないことなど、ソビエト連邦にとっては受け入れられないものを含んでいた。「バルーク案」は当然のごとくソ連に拒否され、国連原子力委員会は失敗に終わった。

 以来、このような欺瞞的なやり方は、米国政府の核政策の特徴となってきた。一方で米国政府は、核兵器全廃に向けた核軍縮政策に対し、上辺だけは支持を与えなければならないと感じている。なぜなら、国連総会では毎年のように決議が採択され、加盟国の大多数が形成する国際世論の圧力を無視できないからである。この流れがNPT(核拡散防止条約)を誕生させ、同条約には4カ国を除くすべての国連加盟国がすでに調印している。NPTの条項により、非核保有国である182カ国は、核兵器の取得を放棄することに同意しており、公然の核保有国である5カ国は、核廃絶の義務を負っている。問題とされたNPT第6条の文言は曖昧さを含んでいたため、包括的かつ完全な軍備の縮小が実現しないかぎり核兵器を保持するための口実をタカ派に与えていた。しかし2年前、再び世論の圧力が働き、2000年NPT再検討会議の後に発表された声明において、この曖昧さは取り除かれた。この声明には5カ国の核保有国すべてが調印し、以下のような内容を含んでいる。

 「…核保有国は、核軍備全廃を実現させる義務を無条件に負うものであり、こうして、第6条の下に全加盟国が公約している核軍縮が進展を見るのである。」

 明らかに、米国、ならびに他の公然の核保有国である中国、フランス、ロシア、英国は、すべての核軍備を廃絶することを公式かつ無条件に約束していることになる。すなわち、核兵器の存在しない世界をもたらすことは、NPTの全加盟国による法的義務なのである。

 しかしもう一方では、事実上の核戦略として拡大抑止が存在しており、これは無制限な核軍備を暗示するものである。

 冷戦が終わりを告げて以来、米国の実際の核戦略は、グローブス将軍によって提唱された政策方針に沿い、核兵器を使用する方向へとますます突き進んでいる。冷戦が終焉するや、米国は、多くのNATO加盟国からの支持を得て、もっぱら最終手段としての核兵器の使用を視野に入れた政策を打ち出した。つまり、核による攻撃に対する報復手段としての核兵器の使用である。しかし、クリントン政権が発表した1994年のNPRでは、化学兵器および生物兵器による攻撃に対する核兵器の使用が、はじめて明確に言及された。最新のNPRはさらに歩を進め、世界の平和を維持するための道具として核兵器を位置づけている。

 しかし、核兵器が平和維持の手段であるとするなら、紛争が武力による解決を求めるかぎり、言い換えれば戦争が社会的装置であるかぎり、核兵器は必要とされることになろう。このような政策は、論理、政治、軍事、法律、道義などの多くの見地からして、文明社会が容認できないものである。本稿において私は、上記の最後の2つの見地、すなわち法律と道義の面で懸念を表したい。

 論理的に言って、米国の核政策は自滅的なものである。仮に、世界最強の軍事大国を含め、特定の国々が安全保障のために核兵器が必要であると唱えるならば、これと同じ理由により、軍事的な脆弱さを案じる他の国々も核兵器を保有できることになる。したがって、核兵器の拡散は、米国の核政策の論理的帰結として生じることになる。米国およびその同盟国が、核兵器を自国のために保持していながら、他国がそれを取得するのを防ぎ得るという理はない。拡大抑止政策は、核拡散防止政策を根底から弱体化させるのである。

 論理にしたがえば、上記に加えて、核抑止論のまさに根幹に対して一撃を加える他の条理が存在する。それは、紛争当事国の双方は合理的に行動するものだ、という想定であり、熟慮して行動するのであれば、それに伴う危険に現実的評価を与える能力がある、とする想定である。しかしこれは、理性的な判断力を持たない指導者には当てはまらないであろう。この点は、ヒトラーに関して私がすでに述べたとおりである。敗戦の危機に直面したり、大衆の戦争ヒステリーに圧倒されて常軌を逸したり、宗教上の狂信もしくは国家主義的熱情によって扇動されたりすれば、たとえ冷静な指導者であっても、戦争時に正常な判断力を失う可能性がある。さらに核抑止論は、人命の尊厳に一切の敬意を払わないテロリストには通用しないであろう。

 拡大抑止政策は、政治上の観点からも容認できないものである。核兵器を拡散している国に対して制裁措置を適用し、あるいは直接に軍事的圧力をかけるなど、国際連合のみが有するべき世界の警察としての特定の権利を、限られた国々(実際はひとつの国だが)が法的根拠もなく手に入れるということは、拡大抑止政策がきわめて不公正なものであることを物語る。明らかにこの政策は、国際社会の平和と安全の維持を、その担うべき特別な使命として設立された、国際連合の本来の役割を踏みにじるものである。

 加えて、拡大抑止政策は恒久的な世界の分裂を生み出す。ある国々は核を保有する強国によって保護を与えられるが、他の国々は他の核保有国によって保護されることになる。あるいはまったく核の傘下に入れない国々もあらわれる。

 テロリストからの攻撃という観点では、拡大抑止政策は軍事的にも効果的ではない。9月11日の同時多発テロが明らかにしたように、国家の安全保障上の大きな脅威のひとつは、テロリスト集団からの攻撃であり、その脅威は、核兵器をはじめとするあらゆる種類の大量破壊兵器の使用を包含している。兵器庫に保管されている何千発もの核兵器は、ごく単純な理由から、テロリスト集団には役立たない。すなわち、テロリストは通常、特定の標的のみを狙うわけではない。彼らの攻撃は、多数の民間人の殺傷を付随被害と見なした無差別攻撃なのである。同時に、核兵器もしくは核兵器レベルの核物質が世界に存在していること自体が脅威を増大させている。なぜなら、それらは存在するかぎり、何らかの方法でテロリストの手に渡る可能性を拭い去れないからである。

 拡大抑止政策は、法的にも容認できないものである。米国および他の186カ国、つまり国連加盟国の98パーセントがNPTに調印し、批准している。2000年NPT再検討会議の後、状況は完全に明確なものとなった。すなわち、核兵器の無制限な保持を必要とする拡大抑止政策は、法的拘束力を有するNPTに明らかに違反するということである。国家が国際条約に対する自らの法的義務を履行し、遵守することは、文明社会の必須条件である。

 しかしながら、核抑止論は、なかんずく道義的な見地において容認することができない。核抑止論全体は、報復攻撃は不可避なものであり、攻撃行為に対しては核兵器が使用されると確信されることで成立する。さもなければ、脅しが虚偽であることが暴露されてしまうであろう。ジョージ・W・ブッシュ米国大統領は、核ミサイルの発射ボタンを押して大規模破壊の道具を解き放ち、攻撃者とみなす相手ばかりか、それをはるかに上回る数の無実の民間人を殺傷し、ひいては人類の文明全体をも存亡の危機にさらすことをいとわない人物であることを、自ら説得力をもって示さねばなるまい。つまるところそれは、指導者に求められる条件には大量殺戮を遂行する能力が含まれているということであり、この考えに対して私は戦慄を禁じ得ない。さらに、このような政策を黙認するならば、大統領だけではなく、比喩的に言えばわれわれ全員が、核ミサイルの発射ボタンを押す用意があるということになろう。すなわち、われわれ全員が人類の文明の存亡を賭けたギャンブルに参加しているということである。われわれは、世界の安全保障を恐怖の均衡に委ねている。結局それは、文明の道義的基盤を徐々に破壊していくことになろう。

 もしかすると、道義的基盤の腐蝕はすでに進行しつつあるのかもしれない。私はこの論点について慎重に語らねばならない。今日の出席者には、この論点に関する説得力あふれる議論の持ち主が多数含まれているからである。私は、多年にわたって事態を見つめてきた門外漢として語るのみである。私には、人々がこれからの数十年間を、人類が瞬く間に滅亡するかもしれないという恐怖にさらされながら生活し、それでいて微塵も精神的に影響を受けないとは思えないのである。強盗から組織犯罪、アルカイダのようなテロリスト集団まで、世界中で増加する暴力を見るにつけ、われわれが冷戦時代を通じて、そして今なお経験している暴力の文化との関連性があるように思えてならない。私は特に、若い世代に対する影響を懸念するものである。

 われわれは皆、平和な世界、公正に満ちた世界を希求してやまない。われわれは皆、われわれが提唱してきた「平和の文化」を若い世代の内に育みたいと願っている。しかしながら、平和が大量破壊兵器の存在という基盤に立脚しているというのに、われわれはどうして平和の文化を語ることができようか。われわれの安全保障が究極の暴力による脅威に依存していることを知りながら、どうして若い世代に対し、暴力の文化をかなぐり捨てるように説くことができようか。

 私は、本質的に社会的道義に反し、かつ人類を大惨事へと導く政策を、すなわち核兵器の継続的な存在を示唆する政策を、世界の人々が受け入れるなどとは思っていない。しかし、国連総会において、毎年、圧倒的多数により採択されている核軍縮に関する決議が、核保有国、ほかならぬ米国政府によって、完全に無視されているのが現実である。

 このように述べることで、私が米国政府と米国民とを明確に分けたのには理由がある。それは、核兵器の使用に対する嫌悪を、米国民が全世界の大多数の人々と分かち合っているものと確信しているからである。

米国社会には、たとえばアイゼンハワー大統領の言及した軍産複合体制に代表される、米国が将来にわたる核兵器の保有を前提とする政策を追求することに既得権を見出す団体が存在している。これらの団体の政府に対する影響力には盛衰があるものの、ユニラテラリズム(一国主義)を主要な特徴とするジョージ・W・ブッシュ大統領の政権において、とりわけ強いように思われる。

 東西冷戦で共産主義が敗北し、開かれた市場経済が勝利したことで、強欲と利己主義という醜い側面があるにもかかわらず、資本主義システムは大きな弾みを得た。利潤追求が前述の軍産複合体制にとっての主たる原動力となり、必然的に、その財産を保護することに重きが置かれるようになった。そこで世界最強の国家は、経済的、技術的および軍事的に、よりいっそう確実な安全保障が必要であると感じており、結果、外からの攻撃に対するより強固な防御を追求し、敵とみなす諸国家の軍拡を圧力で抑止し、必要とあれば軍事力の行使も辞さない態度を取っている。BMDSすなわち弾道ミサイル防衛システム(核兵器搭載の迎撃戦闘機を含むかもしれない)は、米国の領土を攻撃できるあらゆるミサイルに対する防御として必要だと考えられている。技術的にその可能性は低いのだが、仮に防衛システムが100パーセント有効だとしても、他国に核兵器という安全保障の道具を手に入れさせないためには、数千発の核弾頭を保有する必要があるとされている。

 ユニラテラリズムの傾向が有害な影響を与えるのは、他国との関係においてである。米国の利益が何よりも優先される。すでに合意が形成された国際条約であっても、自国の利益に資さないと判断するや、米国はそれを無視するか、一方的に合意を撤回する。ジョージ・W・ブッシュ大統領の政権が発足して1年になるが、われわれはこの間に、政府が一国主義的な外交路線を突き進むのを見ている。すなわち、AMB(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約の破棄、CTBT(包括的核実験禁止条約)の批准拒否、PBWC(生物兵器禁止条約議定書)の調印拒否、京都議定書からの離脱、国際刑事裁判所への反対、等々である。

 国際条約および国際合意の効力を弱める身勝手な行動を取る一方、米国は着々と軍事力を増強している。具体的には以下のような措置を取っている。まず、米国は軍事費、わけても核兵器に対する支出を大幅に増加させた。また、START(戦略兵器削減条約)の合意に基づいて廃棄されるはずの核弾頭を、物理的には破壊せずにおき、大統領命令によりただちに始動できる「予備兵力」として保持することを決定した。さらに、クリントン政権時代に密かに始まった、より高性能な新型核弾頭の開発計画は、それを引き継いだブッシュ政権が公然と推進している。

 1990年代初頭、すなわち冷戦終焉後のことであるが、東西両陣営が膨大な核兵器の備蓄を削減するための手段を講じることに合意するという、善意の見られた時期があった。その一環として、米国政府は、新型の核弾頭の開発を停止し、核実験を終わらせることを決定したのである。

 一般的には、新型の核兵器を開発し、それを実戦で使用できる段階にまで仕上げるには、核実験が不可欠だと考えられている。CTBTがきわめて重要なのはそのためである。CTBTはクリントン大統領によって署名されたが、上院議会の多数派であった当時の共和党によって批准は否決された。当初、これはクリントンに対する些細な政治的反撃であり、しばらくすれば批准の方向に向かうものと思われたが、その後、CTBTが否決された主な理由が、新型または改良型の核弾頭の実験が今後も必要であるという判断にあったことが徐々に明らかになった。

 核軍備の保持には、核弾頭を安全かつ確実に備蓄するための基幹施設、および突然の通告とともに核実験を再開できる能力が絶対に不可欠である。それだけの施設や能力を確保するとなれば、十分な数の科学者ならびに技術者が動員されることになろう。これこそ、1994年に開始されたStockpile Stewardship management Program(核兵器保全管理計画=SSMP)の原点であり、最近、ブッシュ政権が同計画に対する予算を53億ドルにまで増やした理由なのである。

 このプログラムにおける任務には、「核兵器の性能を維持すること、核兵器の備蓄を監視する技術基地を設立すること、核兵器の設計・製造・認証の能力をそれぞれ実証すること」が含まれている。この任務指示は、あからさまな核実験や新型の核弾頭を実際に製造することを除けば、任務に携わる科学者がどのような仕事でも行えるほどに十分幅広いものである。冷戦時代の核軍備において科学者が果たした役割に鑑みれば、この計画下での彼らの任務が制限範囲の限界にまで及ぶものと考えるのが妥当であろう。

 同プログラムによれば、新型の核弾頭の開発は許されていない。しかし、旧型の核弾頭に、同計画の規約が許可している個別的改良を次々に加えることで、この制限は事実上回避することができる。改良された核弾頭に軍側が自信を持つには実験が必要かもしれないが、結果的には、より高性能な核兵器が生み出されるわけである。ブッシュ大統領の国際合意に対する軽蔑的な態度からして、米国の国益にかなうと判断すれば、彼が新たに核実験を承認するであろうことに疑問の余地はない。このことは、最近終了したNPT再検討会議の準備会議の冒頭陳述から確認されている。

 定評のある雑誌等が報道しているように、ロス・アラモスでの研究が新型核兵器の開発として結実したのではないか、との噂が絶えない。ロス・アラモス、リバーモア、サンディアにある国立研究所での軍事研究のほとんどは極秘扱いなため、これらの噂がどれほど信頼できるかは判断できないのだが、信憑性を感じさせる内容である。たしかに、ロス・アラモスでは施設の拡張が行われるなど、活動がいっそう活発化しており、最近ロス・アラモスを訪問した折に(技術基地には立ち入らなかったが)、私はこの目で見て確認している。そしてもちろんのこと、同研究所への研究費が増加していることは、われわれにとって周知の事実である。

 ここで述べる噂とは、強力な通常爆弾にほぼ等しい破壊力を有する、核出力のきわめて低い、しかしコンクリートに深く貫通する形状を備えた新型核弾頭、いわゆる「超小型バンカーバスター核爆弾」が開発されたのではないか、というものである。この核弾頭には、放射性核分裂が封じ込められているという意味で「クリーンな」爆弾であるという、新たな属性が付加されている。この主張に対する警戒を怠るべきではない。というのも、放射能放出を防止できるかどうかについて、少なからぬ疑問が提出されているからである。

 しかしながら、この新型核爆弾における最大の懸念は、性能面での主張の真実性が実証されるべきであること以上に、それがもたらす政治的な影響にある。仮にそれが「クリーンな」核兵器であり、破壊規模を通常爆弾の範囲内に抑えられるとするならば、核兵器と通常兵器との違いは不明確なものになる。核兵器の最大の特徴は、その圧倒的な破壊力である。これこそ、核兵器が大量破壊兵器とされる所以であり、それは化学または生物兵器などの大量破壊兵器ですら比肩し得ない規模のものである。それゆえに、長崎への原爆投下の後、実戦における核兵器の使用はこれまで禁じ手とされてきた。しかし一方で、破壊規模の点で通常爆弾と何ら変わりない核爆弾を製造できるとなれば、その対極にある質的な相違も見えなくなることになる。かくして核の敷居は越えられ、たとえその最大の特徴、すなわち人類を絶滅の危機にさらすその破壊力が依然として残されていても、核兵器は実戦で使用される武器として次第に容認されることになろう。最新のNPRは、これを現実の可能性としたのである。すなわち、状況はより危険になったのである。

 その言い回しからして、今回のNPRが9月11日の同時多発テロの強い影響を受けていることに疑問の余地はない。あの事件は、米国民にとってまさに衝撃的な出来事であった。米国本土が攻撃の対象になることは未だかつてなかったことであり、国民は突如として無防備であることに気付かされたのである。米国の「光輝ある孤立」は微塵に砕かれ、生物兵器よる攻撃のたんなる噂が巻き起こした恐怖がこれに続いた。

 私が主張しているキャンペーンにおいては、核兵器問題を再び国民の関心事にするために、われわれは、まさにブッシュ大統領がテロとの戦いにおいて使用している論法および戦術を利用すべきである。ブッシュ大統領は、9月11日のテロ攻撃の後、タリバンとアルカイダの壊滅に向けて、その軍事的負担のほとんどを米国が担ったとはいえ、アフガニスタンでの軍事行動に備えて多国籍連合を形成しなければならなかった。同時に、テロリストが邪悪な連中であり、対する連合側は高潔な人々であることを明示することで、軍事行動を支える道義的基盤を確立する必要もあった。

 ブッシュ大統領は、諸外国からの援助を求めることで、彼自身の一国主義的な政策の欠陥を認めることになった。われわれは、核兵器全廃の議論に人々を呼び戻すために、この事例をぜひとも生かすべきである。人々は孤島のように絶縁されているのではない。とりわけ今日の世界では、技術がめざましい進歩を遂げた結果、相互依存、透明性および双方向性の度合いがかつてなく高まっている。こうした発展に伴って、信頼醸成の方策から正式な国際条約、環境保護から地雷除去、国際刑事警察機構から国際刑事裁判所(間もなく機能を開始)、そして知的所有権の保護から世界人権宣言の実現にいたるさまざまな分野で、国際合意が形成されてきた。国際合意の定めを尊重し、かつ固守することは、文明社会の根幹を成すものである。それなくしては、前述の多国籍連合がまさしく防止すべき危険、すなわち無秩序とテロリズムが君臨することになろう。

 このことに照らして、米国政府は即刻、以下の手続きを踏まねばならない。

   ◎CTBTの批准
   ◎ ABMからの脱退通知の撤回
   ◎ 宇宙の武装化にかかわるあらゆる構想の廃棄
   ◎ 核兵器の警戒体制の解除
   ◎ 核兵器の先制不使用の採択 これらの手続きは、NPTの条項に準拠した、
     核軍縮に対する義務を遂行するための予備段階である。

 

 核兵器を完全に除き去った世界の創造をめざす主張をより強力に展開させるには、それを核兵器に対する道義的な反対論に基づかせなければならない。ブッシュ大統領は、9月11日の同時多発テロが引き金となったテロ撲滅戦争には、道義的基盤があると主張している。彼は最初、この戦争を「道義的な十字軍」と称した。この言葉は直ちに撤回されたが、その不幸な歴史的意味のゆえに、依然として今回の戦いは、善すなわち正義の使者の側に立つ米国と悪との戦争、という構図で提示されている。しかしながら、このような主張が持ちこたえるには、米国の政策と行動が道義的配慮に導かれていることが自明でなければならない。一方で善を唱えながら、他方でそれと正面から対立する行動を取るような偽善的な政策は、お世辞にも道義的とは言えまい。核兵器の使用、ならびに核兵器による脅しは、道義に反するものとして広く認識されている。となれば、道義的立場と、大統領が核ミサイル発射ボタンを押す準備があるということとの間に、分かち合うものは少しも存在しない。もし米国が、道義的原則に基づく十字軍の指導者を自認するのであれば、大量破壊兵器のいかなる使用をも糾弾するべきである。そして、自らが法的に義務を負っている、核兵器の全廃に向けた政策を実施すべきなのである。

 多くの人々にとって、道義的原則に基づく核兵器全廃の取り組みは夢物語なのであろうが、今日の聴衆にとってはそうでないことを私は確信している。本会議の後援している2団体は、道義的な価値を標榜している。すなわち、あなた方は人間の生命の尊厳に献身する職業に従事しており、献身の対象は個人と人類の別を問わない。そのあなた方が、幾千幾万あるいは幾百万もの人々を死に至らしめるかもしれず、人類を存亡の危機にさらす可能性のある政策に屈服することはないであろう。

 現状はまことにきびしい。現状の向かっている先には、大惨事が待ち受けている。もし仮に解決の糸口があるならば、たとえ非現実的なものに思えるとしても、それを追求するのがわれわれの義務である。公正と道義に立脚する主張は、非情な政治家たちには通用しないかもしれないが、一般市民の心に訴える可能性はある。もしわれわれが、現在の核政策の存続に伴う恐るべき危険に一般市民の注意を向けさせ、それと同時に公正と道義に基づく政策の真価を示すことができるならば、核問題を人々の重要な関心事としてよみがえらせることができるかもしれない。

 われわれには途方もない努力が求められるであろう。すなわち、IPPNW、PSRおよびパグウォッシュ会議、INES(地球的責任のための技術者・科学者国際ネットワーク)ならびに志を同じくする諸団体が、継続的に、かつ一致協力して、核兵器全廃の運動を展開しなければならない。私は、この会議が、われわれがこの膨大な仕事に着手するための勇気と意思を見出させ、われわれの核政策に正気を取り戻させ、われわれの行動に人間性を与え、そして人類に対する同胞意識を呼び覚まさせることを、祈念してやまない。

以上