I P P N W 10 年 の 歩 み
=== 創設から91年までの活動 ===
1980年
米国のバーナード・ラウン、ジェームズ.ミューラー、エリック・シビアン博士が、スイスのジュネーブでソ連のエフゲニー・チャゾフ、レオニード・イリーイン、ミカイル・クジン博士と会談し、核の脅威と闘うために国際的な医師の運動を組織することに合意。
1981年
IPPNW の第1回世界大会が、米国バージニア州のエアリーで開催され、12カ国から80人の供師が参加、大会はマスコミの注目を集め、科学的研究を促し、国際的な運動を構築するための基礎となった。
1982年
第2回世界大会が、イギリスのケンブリッジで開催され、31カ国から200人の医師が参加。
▲ソ連と米国のIPPNWの医師が、ソ連においては前例のない編集されないテレビの生放送番組に出演し、核戦争のもたらす結末に関する討論を行った。ソ連の1億人の視聴者がこの番細を見た。後に米国でも放送された。
▲IPPNW は、Last Aid The Medical Dimensions
of Nuclear Warと題する本を出版。この本は数カ国語に翻訳され、世界の主要な医学校で使われている。
1983年
第3回世界大会が、オランダのアムステルダムで開催され、43カ国から300人以上の医師が参加。
1984年
第4回世界大会が、フィンランドのエスブーで開催され、53カ国から500人の医師が参加。IPPNWの共同後援による国際的な研究「核戦争の子供と青少年に及ぼす影響」が発表された。
▲ユネスコがIPPNWの運動を「一般市民に(IPPNWの主張する)意見を伝え、平和のために人間の良心を動員するという、特にすぐれた活動」であるとして、IPPNWに平和教育賞を授与した。
1985年
IPPNWの新しい東西医師交流キャンペーンの第1回目のツアーの期間中、ソ連と米国の医師団が、核戦争の医学的結末について一般市民を教育し、東西関係を促進するために、米国の5都市を訪問。
▲第5回世界大会が、ハンガリーのブダベストで開催され、60カ国から800人の医師が参加。IPPNW
は世界の41カ国に13万5.000人以上医師会員を有する組織に成長した。IPPNW の活動では、開発と軍縮の関係と、核実験禁止の必要性に関して新たに焦点が当てられる。
▲ IPPNWは核実験停止を求める「医学的処方箋」を発表。その数週間後、ソ連政府は、同年末までの核実験停止の決定を発表。IPPNWは相互失験停止の実現に向け、国際的なキャンペーンに乗り出す。
▲12月、IPPNWはノルウェーのオスロで、1985年度のノーベル平和賞を受賞。ノーベル委員会は、IPPNWが「核戦争によってもたらされる破滅的な結果について権威ある知識を広め、人々の認識を高めることで人類に対し多大な貢献をした」として表彰した。
1986年
65カ国から集まった1、500人の医師たちが、西ドイツのケルンで開催されたIPPNW
の第6回世界界大会において、核兵器の道徳的、倫理的側面について考察した。
▲ノーベル平和賞受賞を機に、IPPNWの指導者らによるIPPNW グローバルキャンペーンが始まり、一行はまずソ連、中国、日本を訪れた。その後、世界の医師を教育し、運動を確立するために、このIPPNW指導者一行のキャンペーンは5大陸を巡った。
1987年
第7 回世界大会が、ソ連のモスクワで開催され、70カ国から2,000人以上の医師が参加。IPPNWの会員数は17万5、000人以上に達し、世界でも最も急速に拡大する医師の組織となった。
1988年
IPPNWは米国ネバダ州ラスベガスで、核実験禁止に関する科学シンポジウムを他の組織と共何で主催。
▲ソ連が1988年に実施した最初の核実験は、IPPNWの新しいシース・ファイア一(停戦)キャンペーンの一部として、各国支部の抗議行動を誘発し、その後も核実験が行われ度に、各国支部による抗議行動は続けられている。
▲第8回世界大会が、力ナダのモントリオールで開催され、80カ国近くから2,500人の医師が参加。クロスビー、スティルズ、ナッシュらが、ソ連やカナダのミュージシャンと共にIPPNWの平和のためのコンサートで演奏を行った。
▲核兵器生産により拡大する危機的状態に対応して、IPPNWは核兵器生産の健康と環境に及ぼす影響を調査する国際調査委貝会を設立。
▲同年12月、ソ連のアルメニア地方を大地震が襲う。IPPNWは、数百万ドル相当の医薬品等を被災地に送り、複数の医師団の派遣を手配した。
1989年
発展途上国の医療を何上させる目的で、宇宙技術を利用するプログラムを開発するサテライフが、IPPNWの後援で法人化される。
▲ IPPNWから Medicine and Nuclear War: A Model
Curriculumが出版され、主要な医学校の教授陣がカリキュラムの中に、医療と核戦争に関する情報を組み入れることに役立っている。
▲10月に開催されたIPPNWの第9回世界大会では、3,000人の医師がヒロシマ、ナガサキの両被爆都市に集まった。
1990年
IPPNW は、ソ連の草の根運動である「ネバダ-セミパラチンスク=ムルロア」と共に、ソ連力ザフ共和国のアルマアタとセミパラチンスクにおいて、核実験禁止国際市民会議を招集した。この歴史的な会議は、包括的核実験禁止キャンペーンに新しいエネルギーを与えた。
▲サテライフがポーランド医学図書館と英国医学協会図書館とを衛星で結び、ポーランドの医学研究者が西欧の医学雑誌の恩恵に浴することを可能にした。
1991年
IPPNW 広島大会で設置されたIPPNWの「核兵器生産による健康及び環境汚染国際調査委員会」が5月、中間報告として核実験が地中・地上・大気において健康や環境にどのような影響を与えるかを調査分析した“Radioactive
Heaven and Earth(大気と大地の放射能)"を発表。
▲6月にスウェーデンのストックホルムでIPPNWの10周年記念世界大会が、78カ国、1.400人の医師らが参加して開催された。
▲発展途上諸国の医療従事者たちにとって極めて重要な医療情報を提供するサテライフが7月、通信衛星の打ち上げに成功。ニューファンドランドとザンビアにある地上局が、ヘルスネットプログラム利用の要としてまもなく始動開始予定。
▲I993年に、IPPNWとしては発展途上国で初めて開催されるメキシコシティーでの第11回世界大会の準備が、現在着々と進んでいる。
(世界の IPPNW の加盟支部は、1991年6月末現在では76カ国に広がり、会員数は25万人を超えていた)
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※資料:病める地球を癒すために(核戦争防止国際医師会議からのアピール)バーナードラウン著 より
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