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特別報告

「核戦争に反対する医師の会−PANW」〜20年の活動の軌跡〜

2007年 9月23日 

核戦争に反対する医師の会

代表世話人  児嶋  徹


1. PANW設立20周年を迎えるにあたって

 

1981年3月、第1回「核戦争防止国際医師会議」− IPPNWがボストンで開催されました。第2次世界大戦後から続いた米・ソ冷戦のなか、米ソを中心に核弾頭の備蓄が増大し、地上での核実験がくり返されている時でした。ネバダ、ビキニ、ムルロア環礁、セミパラチンスクをはじめとして地球規模での放射線被曝が問題となるとともに、核戦争の危機がいつおとずれてもおかしくないという国際的緊張が高まる情勢下で、IPPNWが発足しました。

 保団連・民医連は、1983年に開催された第3回アムステルダム総会より参加しています。1984年8月、日本原水爆禁止協議会は、唯一の被爆国である原水禁運動の理論的、実践的到達点をふまえ「核兵器の廃絶を緊急課題」とする決議を発表しています。さらに、1985年2月、「ヒロシマ・ナガサキアピール署名」を国際的規模で取り組むことを提起しています。1986年「非核の政府を求める会」が発足、その中で「被爆国の医師、医学者の責務として核兵器廃絶を緊急の課題」として取り組む全国組織の必要性が述べられていました。

1987年8月、先進的な医師・医学者の呼びかけに呼応して、第1回「核戦争に反対し、核兵器の廃絶を求める医師・医学者のつどい」が開催されました。原水禁統一世界大会が開催されて10年後でした。“つどい”発足後の10年の歴史は、前代表世話人莇昭三先生の第10回“つどい”記念講演「世界の反核運動と医師の役割 −

IPPNWの歴史と使命」のなかで詳細に述べられています。

 20周年を迎えるにあたって、1998年以降10年間の活動軌跡を中心に記述します。また、この20年間に、被爆者に思いを馳せ、日常医療を実践しながら“反核医師の会”で活動された、私たちの国の良心といっても過言でない諸先輩が亡くなられています。あらためて、哀悼の意を表するとともに、今を生き、核兵器のない世界をめざし、未来に向かって活動する私たちがいっそう奮闘することを誓うものです。


2. “つどい”“北アジア地域会議”“IPPNW総会”を顧みて

 国際会議、国内の“つどい”開催の年表は別紙に添付しています(図表−01〜03)。

1998年9月、第9回福岡での“つどい”は、「核のない21世紀を子どもたちへ」のテーマで、日米新ガイドライン(War Manual)について学びながら、長崎原爆松谷訴訟の勝利に向けて、世界のヒバクシャと連帯し、被爆者医療の現状と問題点の認識を深めました。九州の反核医師の会がこの松谷訴訟勝利に大きな力を発揮したことは素晴らしいことでした。(図表−01) 

 この年、第13回IPPNW総会は、メルボルンで「Abolition 2000」のテーマで開催されました。翌1999年、ハーグ世界平和会議で「各国議会は、日本の憲法9条のように、自国政府が戦争することを禁止することを決議する」と採択されました。(図表−02)

 一方、この年、新ガイドライン制定に伴う法改正に第一弾「周辺事態法」が国会で採択されています。また、この年、第10回“つどい”が東京で開催されました。被爆者の心の問題、被爆二世について等々を学習し、青年医師が独自に「青年医師として、今なすべきこと」のシンポジュウムを開催したことは新しい試みでした。“つどい”10周年記念講演が「世界の反核運動と医師の役割 − IPPNWの歴史と使命」のテーマで代表世話人莇昭三先生によって行われ、私たちの役割・使命を再確認することができました。

 第11回の“つどい”は、「核のない21世紀へ、NGOの役割を強めよう」のテーマで、2000年に大阪で開催しました。IPPNW総会共同議長アシュフォード女史の記念講演「21世紀のIPPNWの戦略とそれに関して日本の反核運動に何を期待するか」が行われました。「市民の中に入り、反核運動をいかに高揚させていくか」「政府、マスコミ、国会に対し、いかにアプローチしていくか」「他のNGOと連携・連帯をどのように深めていくか」「NGOや市民運動の将来」などの論議を組織し、「反核医師の会」の存在意義を認識し、その活動形態をステップアップ出来た“つどい”となりました。この“つどい”は、近畿各県の「反核医師の会」とIPPNW近畿各支部と協力し合いながら開催したという新しい形でもありました。

 第13回IPPNW総会は、パリで「平和がもたらす健康」のテーマで開かれています。IPPNW設立20周年、ノーベル平和賞受賞15年にあたる年でした。

 2001年、日本では、テロ特別措置法が成立、アフガンでの米軍支援のため、海上自衛隊補給艦をインド洋に派遣しています。私たちは、第12回“つどい”を東京で開催、スローガンは「学びつたえよう、核兵器廃絶と平和への想い」で、記念講演は、加藤周一氏「核廃絶を求める理由〜一般的理由と医師の立場からみての理由」、池田真規氏の「軍隊を持たない憲法とコスタリカの平和教育」でした。また、特別報告「アフガニスタン情勢と医療支援」を小池晃参議院議員にしていただきました。この“つどい”では、新しい時代の平和教育をどう進めるかで、活発な論議が行われました。これを受けて、「反核医師の会」では、医療人のための平和テキスト“核のない世界へ”の分担執筆が開始され、幾多の討議を重ね、2003年11月に出版しました。会員の協力で1,500冊が販売されています。

 第13回“つどい”は、四国愛媛で開催、「子供達につたえよう核兵器廃絶と平和への重み〜核兵器いらんぞなもしin松山」のスローガンで、岡本三夫氏「21世紀にむけて核廃絶をめざす市民運動」と日色ともゑ氏の「さわやかな心大切に」の二つの記念講演を企画、「えひめ丸とグリーンビル事件からみる軍隊の本質」を学び、平和運動を広めていく緊急性が認識された集会でした。

 第15回IPPNW総会がワシントンで開催、2001年9月11日のテロ事件直後でテーマは「Summit for Surviival」で、小火器、地雷、気候変動、生物・化学兵器、中東問題など幅広く論議がされました。

 2003年第14回“つどい”は、「21世紀、沖縄から核・基地・戦争を問う〜かたやび命どう宝」をスローガンに、核軍事基地沖縄と有事法制、新基地建設問題、沖縄戦の体験と平和教育など、米軍基地を目の当たりにしながら沢山のことを学び、実感できた“つどい”になりました。同時に原爆症認定集団訴訟が始った年でもあり、この訴訟の意義、被爆者がなぜたちあがったのか等を知り、訴訟勝利にむけて「反核医師の会」として積極的に取り組むことを決意した、大変意義ある大会になりました。

 NPT再検討会議を翌年に控え、国内では、憲法九条を変える動きが激しさを増してきた2004年には「守ろう平和憲法、なくそう核兵器〜被爆60年、NPT再検討会議を契機に」のスローガンで“つどい”が札幌で開かれました。分科会では、劣化ウラン問題も取り上げられ、活発に若者の交流が行われました。「世界に誇る平和憲法を守り、発展させるたたかいにたちあがろう!」の特別決議を採択しました。この年の7月、アーミテージ米国務長官は「憲法九条は日米同盟の妨げの一つ」「常任理事国は国際的利益のために軍事力を展開しなければならない役割がある」と暴言をはき、日本経団連は初めて、憲法改定、安全保障政策などを論議する「国の基本問題検討委員会」を設置、アメリカの起こす戦争に日本を参加させるための、日米合作の強い動きがあり、私たちは、日本の進む方向に危機意識を持って、札幌での“つどい”を開催しました。

 そして、IPPNW総会が56カ国、360名の参加で、北京で開かれています。「健康による平和」がテーマでした。秋葉忠利広島市長の講演が参加者に深い感銘を与えました。ワークショップで、松井和夫団長が「日本の立場から見たミサイル防衛」のプレゼンテーションをしました。そのスピーチの関わりで、オーストラリアの医師が、「日本には、憲法九条を輸出してもらいたいものだ」というコメントをつけたことがとても印象深く響きました。

 2005年名古屋で、第16回“つどい”が開催されました。この会には第2回以来の300名を超える多数(313名)の参加者がありました。「なくそう核兵器、なくすな九条」をスローガンにして、シンポジュウム「戦争・核の恐怖から抜け出す平和への道〜日本の果たす役割は?」を開きました。核兵器廃絶をめざして、世代を越えて医師の役割を考え、憲法と日本の戦争責任をリンクして考えて行くこと、原爆症認定集団訴訟勝利にむけての活動を強化し、被爆者救済、これ以上被爆者をつくりだしてはならないと決意した、内容の充実した“つどい”となりました。

 2005年1月に、自民党は、「新憲法起草委員会」の初会合を開催、4月に小委員会の委員長思案を提起し、11月に草案を発表しています。九条の改正を主としたもので、アーミテージ発言から見てもアメリカの要望に応えた形で進められているのは明白です。この年の2月10日、北朝鮮は核兵器製造を宣言し、その後六カ国協議は中断されました。

 第17回“つどい”のメインテーマは、「横須賀からの発信、核の傘はいらない、はばたけ平和憲法」です。呉東正彦氏の特別講演「米軍再編と日本の未来〜原子力空母の横須賀母港化を意味するもの」は改めて、日本国憲法、とりわけ憲法九条を守ることの重要性を認識し、首都圏の核基地化はまさに米国の核戦略に組み込まれたものであること、それに日本政府が追随していることが理解できました。

「被爆者医療と原爆症認定集団訴訟」も継続的に取り上げられ、今年7月30日の熊本地裁勝利判決になり、厚労省、国の6連敗に結びつけました。全ての地裁判決後、国は控訴しています。被爆者の死を待っているかのような残酷な仕打ちに、勝利まで気を緩めずたたかい続けていきます。この“つどい”で、ヘルシンキで開催された第17回IPPNW総会について報告がされました。「医師の使命、戦争か健康か?」がテーマでした。IPPNW理事会は2007年の目標を5項目設定しました。

@ 核廃絶国際キャンペーン(ICAN)

IPPNWは、他のNGOと共同して、核保有国がNPT条約を定めた核軍縮義務を遵守しているかどうか

について、新たに国際司法裁判所の勧告的意見を求めていく予定です。

A 核拡散と保健についての国際会議開催を2007年10月にロンドンで開催する予定であることを言明しています。

B 「防止をめざして」キャンペーン

  ラテンアメリカ、アフリカ、南アジアを中心に小型兵器や軽量兵器が原因で起こる死や傷害に焦点をあてる活動です。

C グローバル・ヘルス・アラート/手紙キャンペーン

「戦争はあなたの健康に悪い」というメッセージを中心とした、新しい大衆啓発ツールとして推進されるも

のです。

D 医学生の支援

IPPNWとして、活動、財政、リーダーシップ開発などあらゆる分野で医学生の運動を支援する活動です。

 以上のIPPNWの提案を「反核医師の会」として、どのような形で協力・共同の取り組みにしていくか論議が必要とされています。

 北アジア会議の開催は、図表−03の通りです。

3. 「核戦争に反対する医師の会」設立20年の活動の到達点

1987年に、第1回“つどい”を東京で開催以降20年、1989年IPPNW総会が広島で開かれた年に、全国代表・活動者会議開催をはさみ、基本的に毎年“つどい”を成功裡に組織してきました。2007年の今日、20周年の第18回総会を京都で迎えています。第15回札幌総会にて、「反核医師の会」の申し合わせ事項を提起、1年余の議論を重ね、第16回名古屋総会にて確認して実践に移されています。会の強化・拡大を計っていく上で、活動の到達点、国内外の核をめぐる情勢、IPPNWの活動指針をふまえ提案しました。

会の名称を「核戦争に反対する医師の会」(略称:「反核医師の会」;英文標記は“Physician Against Nuclear War”

としました。)

 発足当初の呼びかけ主旨は、@核戦争を阻止し、核兵器廃絶を緊急課題とする運動と医師・医学者の社会的役割、A広島・長崎での原子爆弾被害者医療の今日的課題の討議、B各地での医師・医学者の「反核運動」の交流などでした。これらの主旨を包括して、本会の理念を以下のように定めました。

 「すべての人の健康を守るという医師・歯科医師の社会的責務および良心から、健康にとって最悪の敵である核戦争に反対し、核兵器廃絶の実現をめざして医師・医学者の声を結集する。さらに、被爆者医療に関わってきた日本の医師として、再び被爆者を生み出さないように人びとに広く訴えていく。核戦争の背景となる通常戦争、小火器や平和問題等にも取り組む」と成文化しました。組織拡大の到達点は個人会員が271名、団体会員31団体となり、総数で300をこえることが出来ました(2007年9月7日現在)。会員拡大は、当然のことながら財政基盤も確かなものにしていきます。私たちの活動を幅広く、豊かにしていくためにも、同時に納入率を高めていく必要があります。(現時点での納入率87%)

 「反核医師の会」にとって、事務局体制の確立は長年の懸案事項でした。2003年より、反核・平和・米軍基地問題等々の優れた理論・実践家である平山武久氏を事務局に迎えることが出来ました。現在、事務局長として、その任についています。この体制の確立は、核をめぐる情勢の収集・報告、「会」としての日常的な情勢対応、3人になった代表世話人会議の定期的開催と論議、常任世話人会議の組織など、「反核医師の会」の円滑な運営に大きな力を発揮しています。また、常任世話人会メンバーは、「広報・機関紙」「被爆者医療」「国際関係」の3つのグループに所属し、課題遂行に向けた「会」の活動を深めていくために大きな役割を果たしています。

 

4. 「反核医師の会」20年の活動の成果を礎に、教訓を引き出し「核兵器のない公正な世界」をめざし奮闘しよう!

 2007年5月、日本国憲法は施行60年の記念日を迎えました。安倍前首相は「改憲を政治目標に乗せる」と明言、手続き法である国民投票法案を自・公政権が国会で強行採決し成立させました。自民党は、7月の参議院選挙にむけてのマニフェストの一番目に、この「改憲」を掲げましたが、ご存じのように歴史的な敗北を帰しています。安倍前首相は雄弁に「改憲」を主張する際、九条以外なにも語らないことからみても、「改憲」の狙いは九条であることが明白です。米国の日本史研究者であるジョン・ダワー氏は著書「敗北を抱きしめて」で次のように記しています。「なんと多くの日本人が平和と民主主義の理想を真剣に考えていたことか!もちろん、平和と民主主義こそ、私自身の国がたたかいとろうと努力している当のものにほかならない。日本人も私たちと同じ夢と希望をもち、同じ理想とたたかいを共有しているのだ」。

 私たち「反核医師の会」は、核戦争を防止し、核兵器廃絶を求める活動と憲法九条を守る運動は不可分に結びついているものと認識し、2005年名古屋で開催された“つどい”では、「なくせ核兵器、なくすな九条」をメインテーマにしました。

2004年IPPNW北京総会で、オーストリアの医師が「日本から憲法九条を輸出してもらいたいものだ」と述べたように、反核運動を進めていく上でも憲法九条を活かすことが、日本が世界に果たす役割であることを改めて認識するものです。

九条を中心に憲法を改正しようとする動きの規模と強さは絶対に軽視できないとして、2004年7月10日、“つどい”のメインスピーカーとしても協力いただいた、大江健三郎、加藤周一氏など9人の日本の良識を代表する有識者が「九条の会」を発足させ、アピールを発表。「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ『改憲』のくわだてを拒むため、ひとりひとりができる、あらゆる努力を今すぐ始めることを訴えます。」と結んでいます。私たちは、この訴えに賛同・共鳴し、引き続き憲法改悪反対運動を強めて行くものです。

今年、2007年5月2日に発表された朝日新聞社の全国世論調査で、憲法九条が日本の平和に「役立ってきた」と評価する人が78%をしめたのは、私たちの運動も大きな役割を果たしてきていることに確信を持っていきたいと思います。

 2006年、北朝鮮が核実験をしたことを発表、国際社会はこの核実験を批判し、一致結束して北朝鮮に核兵器の保有と開発計画を放棄させようとしました。この核実験に対し国連安保理は決議を採択し、平和的、外交的に事態を解決することを基本に、そのための制裁を国連憲章41条の非軍事的措置に限り、六カ国協議の当事国は「外交努力を強め、緊張を激化させる可能性があるいかなる行動も慎むこと」を明快にしています。

このような中、北朝鮮の核実験に対抗し、外務大臣、自民党政調会長が日本の核保有の議論を肯定する発言を重ねています。安保理に反するばかりか、唯一の被爆国政府として、核兵器を「持たず、つくらず、持ち込ませず」という「非核三原則」の国是を放棄、すすんで核兵器廃絶を果たす役割をも放棄して、世界の信頼を失っています。

 この年、政府は、米原子力空母の横須賀配備を決定しましたが、原潜ホノルルの放射線汚染が明らかになりました。政府は米軍に追随し、この汚染調査を打ち切り、横須賀市民と首都圏3千万人のいのちと健康を守ることを放棄したのです。

1999年に締結された、新安保条約(War Manual)にそって、日本国民は核兵器の危険、放射能汚染の恐怖の中に身を置きながら、アメリカの戦争に参加する国民にされようとしています。日本の主権と世界の平和がかけられた重大問題として、全国民的課題にしていく必要があります。

 1945年8月6日、9日のアメリカによる広島、長崎への原爆投下から62年を迎えました。原爆地獄を生き延びた被爆者が、苦しみを乗り越え、訴え続けた「再び被爆者をつくるな」の願いと「被爆者とともに」は、核兵器廃絶の世論と運動の原点です。「ノーモアヒロシマ・ナガサキ。ノーモアヒバクシャ!」、この被爆者の声は人びとの心を動かし、それに呼応した世論の運動の力は、幾たびも核兵器の使用を阻止し、国内外に核兵器廃絶の大きな流れを創り出しています。

被爆者のたたかいは今も続き、4年前から原爆症認定集団訴訟のたたかいを力強く進めています。昨年5月12日の大阪地裁判決の勝利後、広島、名古屋、仙台、東京、そして今年7月30日の熊本判決での勝利で6連勝しています。これまでの判決の共通した特徴は、厚労省の原爆症認定審査方針では、被爆の実相を説明できないことを断罪したことです。しかし、厚労省は、控訴を続け、この集団訴訟のたたかいは、今14地裁、6高等裁判所で続けられています。平均年齢75歳になる高齢の被爆者の死を待っているかのような残酷な仕打ちです。  

一方、このたたかいは、広く、深く国民の中に広がりをみせ、司法の世界だけでなく自治体、各政党、国会議員の中にも被爆者要求への支持の輪が広がっています。一連の法廷闘争で、医師たちの果たした役割は大きな比重を占めています。私たちは、このたたかいに勝利するまで力を抜いてはならないのです。

この集団訴訟は、62年間苦しみ続けた被爆者の救済とともに、原爆被害を軽視する国の姿勢を正すたたかいでもあります。

 申し合わせ事項で確認した理念達成のために、PANWは、全国「反核医師の会」などの相互連携を計り、活動や情報交換のセンターの役割を果たし、全国大会の定期的開催をしていくことが求められています。IPPNW世界大会、北アジア大会への参加、運動への協力、提言を行い、国際連帯を強化する責務もあります。核兵器廃絶をめざす内外のNGOとの連携、協力、交流を深めていくことも求められています。広報活動を一層活性化させ、「会」の存在意義を広く、医師、歯科医師、医学者、すべての医療人に伝えていくことが必要です。さらに国民に知らせ、国の政治を動かす力を築いていく必要があります。被爆者運動は、反核運動の原点です。日常の被爆者医療のみならず、被爆の実相を伝え、集団訴訟勝利にむけ直接、間接に医師の役割を果たしていくことが求められています。

20周年記念事業のひとつとして、IPPNW前共同議長であった、メアリー・ウイン・アシュフォード氏の著書のひとつとして、「ENOUGH BLOOD SHED」の翻訳、出版が進められています。この事業を成功させるために力をさいて下さい。

核をめぐる情勢は、めまぐるしく変化します。情勢に敏感になり、権力の動向に注意して、その対応を機敏にすることも、今後さらに求められていくでしょう。

今日の世界と日本の情勢を分析し、日本原水協と「反核医師の会」も参加している「非核の政府を求める会」の代表など、広範な各界の人びとの共同提唱で、日本政府に「非核日本宣言」を求める運動が始まっています。日本政府が、「核兵器廃絶の提唱」「非核三原則の遵守」を内容とする「非核日本宣言」を国会や国連の場で行い、すべての国に通告することを求めるものです。

 2000年のNPT再検討会議では、核兵器廃絶の「明確な約束」に核保有国も合意しています。とりわけ、核超大国アメリカは、核拡散やテロの脅威を口実に、実行を棚上げするばかりか、新型核兵器開発や核兵器先制使用政策(2002年1月〜核体制見直し〜Nuclear Posture Review)を進めています。このような状況下で、日本政府は、北朝鮮の核開発問題を口実に、六カ国協議が始まる前に北朝鮮が核兵器開発を放棄しても「核兵器不使用」を約束しないようにアメリカに要請しています。そして、日米安全保障協議委員会で、核・非核の打撃力・防衛能力による「拡大抑止」、言い換えれば、「核の傘」の強化に合意しています。さらにミサイル防衛システムの日本への前倒し配備も確認しています。

唯一の被爆国政府が、核廃絶どころか核兵器によって「安全」を守るという時代錯誤の発想を、推進しているのです。「非核日本宣言」は、「核の傘」からの離脱、非核三原則の完全実施を求め、この国を真に核廃絶へのリーダーシップを発揮する道に進めさせなければなりません。その実現は、核の危機を平和へ転換します。私たちは「非核日本宣言」を求める運動に積極的に参加していきます。

 今、IPPNWは、International Campaign to Abolish Nuclear Weapon 運動を取り組んでいます。私たち自身の取り組みを強めるだけでなく、広くNGO組織、核廃絶を願う諸組織、個人にも呼びかけ、協同して、この運動を推進していきましょう。

 20年の歴史を刻んだ「反核医師の会」の活動をステップ・アップ、バージョン・アップさせていくことは、平和を構築していく上で、たくさんの人びとに励ましを与えることになります。        (おわり)

                                                  

《資料》別紙

(図表−01)「反核医師のつどい」年次総会の一覧

(図表−02)IPPNW世界大会の年表

(図表−03)IPPNW北アジアなどの地域会議の年表